このパイセンら、強者につき

敬語は16になってから 雑記

こんにちは、サンプルりか子です。

この間は久々にアニメイトへ行ったことで
オタクだった昔のことを思い出した、という話を書きました。

私は中学生でしまじろうデビューをし、
「遅咲きのしまじろう」を果たしたんですね。
ちなみに『おジャ魔女どれみ』もその時に同時デビューしました。

当時仲良かった友人も日曜のアニメを見ていたので、
同世代が月9で盛り上がる中、
我々は『おジャ魔女どれみ』や『明日のナージャ』、
『しまじろう』といった話題で盛り上がっていたわけです。

朝ドラならぬ朝アニメだけではなく、
もちろん夕方や深夜アニメもチェックしていました。

アニメであれば手当たりしだいに見ていたのです。
暇だったのです。
私の生きがいだったのです。

私は中学生の時はアニメも漫画も書籍も狂うほど見て・読んでいたし、
小説を書いたり、四六時中絵を描きまくっていました。
授業中も、家に帰ってからも、落書きしたり大学ノートに漫画を描いたり。

漫画は、ギャグ、学園モノ、異世界シリアスものといったオリジナルの他に、
二次創作もしていたのでいつか同人誌を出したいなと考えていました。

そんな私の中学の先輩に、ツワモノがいたのです。


私達は中学まで年上にも敬語を使わなかったので
先輩というより友達っていう感覚だったのですが、
今回振り返ってみて先輩だよなと思いました。
中1の時ドッチボール大会で顔面にボールを当てた先輩にもタメ口でした。
田舎だもん。)

しかし、今回はこの数人の上級生のみなさんのことを
大先輩と呼ばせていただきたいです笑。

先輩たち4,5人のグループも漫画・アニメ大好きで、
絵を描いたり、機関報というのでしょうか、
私達の間ではそれを「ペーパー」と読んでいたのですが、
同じ中学内、みなさんでサークル活動をしていたのです。

「いいなぁ、私も先輩(と呼んだことはないが)達みたいにペーパーだしたい」

そう思ってはたから見ていました。

先輩達の何がすごいって、同人活動を学校公認のものにしたことです。


私達の地域にはスーパーはおろか、コンビニもありませんでした。
小さな個人商店はあったのですが、多くのものを求めようとすると
車を20分は走らせる必要があります。
中学生が行くならバスに乗っていくか、親の車に乗せてもらうか、
緩急の激しい道を自転車でいくか長時間歩くか。
(私はその頃から徘徊グセがあったので友人と歩いて街に行っていました。
歩くだけなので健全な遊びです。)

ペーパーを作るには、印刷機が必要です。
今はあまりFAXを使う機会がありませんが、
当時は多くの家庭でFAX付きの電話機がありました。
複合機というやつです。
それにコピー印刷機能付きのものもありました。
うちの電話機もそのタイプだったので、ちょっとした印刷はできました。

ただ、全国に配るペーパーを刷るには限界がありました。

先輩の中には県外のあちこちに知り合いがいる人がいて、
ペーパーを色んなところに行き渡らすことができたのです。
すごい!

そんな先輩たちが学校側に何をしたかと言うと、
同人活動を学校でできるように許可を得たのです。

まずは担任の先生に頼んだそうです。
すると校長先生に言ったほうがいいと言われ、
校長先生に交渉しに行きました。

ペーパーとは何か。
そういった説明をし、紙代と印刷代は自分たちで用意するから
印刷機を使わせてほしいと頼んだそうです。

なんと、出来上がったペーパーを校長に提出(!)することで
許可されたそうです!
あっぱれ!

そうして大先輩たちは、教室で堂々と同人グッズを制作したり
ペーパー発行作業をしたりしたんだそうな。
…恐れ入りました!!

なぜ同人活動が先生達に受け入れられたかというと、
おそらくこの先輩たちの普段の素行が良かったからでしょう。
媚をうっているわけではありません。
後輩で友達でもある私から見てもそう思います。
私なんか一部の先生から影の支配者と呼ばれていましたから。
支配どころか候補者おらず無理やり推薦されてイヤイヤ出た生徒会選挙で落選したけどねっ!
(これで人間不信になった)


ちなみに、私が念願のペーパーを発行、
いわゆる同人活動デビューしたのは高3になってからでした。
友達(後輩)と一緒にペーパーを書いていました。
こちらも遅咲き。
遅咲きの達人でしょうか。
しかも数か月で幕を閉じました。


そんなこんなで、私の前をツワモノ先輩方が
走ってくれていたのです。
その背中をずっと追わせていただいておりました。

先輩方にはよく遊んでもらったし、大変お世話になりました。
ここでお礼申し上げます。


では、また。

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